辛いことばかりな日記

辛いことばかりな人生生きてます

大事な日

今日は、母親の命日。

2003年の今日の12時40分頃、東北道の下りを1人運転している時、後ろの車の運転手がよそ見して追突され亡くなった。

 

あの時は、私は27歳だった。

子供達は、小学校3年と、下は4歳になったばかり…3時ごろに妹から連絡来た時は大した事無い感じで、とりあえず、子供達の一泊出来そうな荷物を用意して妹家族、父親、私の元夫が揃うの待って現地の搬送された病院に行った。

着いたのは6時くらいだったか…

 

病院の先生に「検査が終わったあと、吐血され極めて難しい状況です。」って言われ、母の寝ていると思われる部屋に入ると、挿管されて寝た状態で心電図モニターも動いてないような光景が目の前に現れた。

もう、生きてなかったのだ。

 

亡くなったって言ってないじゃん、先生…

 

その後、瞳孔確認して先生は去り、近くにいたスタッフらしき年配の女性に「死んでるんですか?」って聞いた、すると、「そうですねえ」って言われて、大泣きした。受け入れられず2時間くらい大泣き

 

その後、部屋から出ると、知らない若いお兄さん2人に「どうも、すみませんでした」って謝られたけど、よく分からない、この人達は誰?

 

そして、警察官の人に「これから検死するから旦那さん来て下さい」って父親が連れて行かれ、その警察官に、どおなってるか聞いたら「後ろの車の運転手がよそ見して気がついたらぶつかってたみたいでね。    私達も、仕事沢山抱えているから、ごめんねー」って陽気な感じで言われて、病院スタッフに仙台の家まで遺体の搬送どおするか決めて欲しいと言われて、私は、母親の荷物から手帳出して、アドレス書いてある人皆んなに電話した。

母親は、何かあった時の、葬儀屋さんを決めていたので、それを聞くために…。

 

夜は寒くなっていた。

 

ようやく、葬儀屋さんにたどり着き、搬送車も来てくれた。

病院の裏から帰され、何人も頭を下げられ見送られた。

仙台の実家に着き母親を布団に寝かした。

 

12時すぎていて寒くて、母親が寒くないように布団かけて、また、葬儀屋さんに家に着いた連絡したら、すぐに来てくれた。

通夜の話し、告別式、棺はどれにするかなど、その晩から朝にかけて決めた。

泊まる部屋は無いので、4時ごろ子供達と元夫とアパートに帰った。

子供達と元夫は、すぐにぐっすり寝ていたけど、私は眠れず、7時に1人実家に行き、勝手に来て泊まって行った親戚のおばさんの朝ごはんを作る。二階では妹家族が住んでいて寝ているけど、起きる気配も無い。

そして、ニュースを見たと言って、朝から次々と近所の人や母親の仕事仲間や、親戚と言う人が続々と来た。私は1人、しっかりしなきゃって頑張る日々が始まった。

 

 

訳が分からないまま、今日になっている気がする。

母親の車にぶつかって来た相手は、事故から1年くらいの裁判終わって、執行猶予ついても、それから会うことはなかった。

 

なぜか、今日、私は怒りが少し来ている。

 

でも、苦労しかしなかった母親が苦労したまま人生終えてしまい、それが今でも悔やむ。